推しのいる日常

 

 

 

今日は12月7日。

明日12月8日は推しがアイドルとグループを卒業する日です。

 


「1年半後に卒業します」

というお知らせをもらって、最初は1年半の扱いをどうしたらいいかわからず、それなりの時間があると思った1年半はあっという間、本当に「あっ」という間で。

 


期限・終わりが見えたことは最初から意識してたし、最後のカウコンだ、最後の周年だ、あと半年だ、最後のお誕生日だ、あと3ヶ月だ、あと1ヶ月だ……

全部しっかり意識したはずなのに気がついたら、駆けよればすぐの位置に終わりが見えます。明日て。

 


そうずっと。ネガティブにでは無く「最後」が来る前の時間を大切にしようという意味で意識していたのに、そのことに気づいたのは9月になってからのこと。

なんか「9月」って急にすごく重く感じて焦った時がありました。*1

9月はほぼ毎週イベントがある月で、平日の限られた時間で仕事にケリをつけつつ毎週末地方へ行っては楽しんでいて、少しずつ「この会場・街に来るのも最後かな」なんて思い始めた頃。

 


ふと思い至ったのは、

無くなるのはこうしたフォーゲルさんを追っかけてライブへ出かける特別な日、だけではなくて

日常の中の「推し」にまつわる事柄についても、もう新たに増えることはないんだな、ということでした。

 

 

 

 

このブログを読んでくれてる方は大体ご存知な気がするけど、私の推しはこまめにSNSやブログや配信を動かすアイドルです。


朝、しゃーなし、仕事はじめるか~って思ってる時に始まる寝起き姿の配信とか、

仕事の最中に来るブログの更新通知、入る(フ)の文字にドキっとするとか、

週の半ばになって先週末の遠征先はこのコーヒーショップに行ったんだってわかるとか、

電車でイヤホンをしながら1人わくわくと見るTikTokや踊ってみたの動画とか、

眠る前にもしかしたらキャスがあるかもしれないって待っている時間とか。

 


特別な平日や週末じゃなくて、ありふれた自分の生活の中にも気が付いたら推しは居てくれて。

ステージの上から去るとともに、これらも無くなるんだって気づいて。

これらを今後欠くことは、ステージ上での推しを見られない・推しと話せないのと、同じくらい大きく寂しいことでは?と1人大きな衝撃を受けました。

 


ここまで寂しい寂しいと書いてしまうと卒業に伴って無くなることをひたすら悲しんでいるみたいですね。

 


確かに寂しいのは事実です、ほんとさびしい。

でも寂しいと感じるのは、推しが、それだけ自分含むおたくの日常に入り込んで楽しませたり・支えたりしてくれていたからなんですよね。

イベント以外にも楽しみを作ろうという動きを推しはずっとしてきてくれましたが、ステージや撮影会以外のこうした行動って彼自身が決めてやらなければなかったものです。

 


最後の生誕祭の2L写真に彼は

ありのままの自分でアイドルができて幸せ!

と書いてくれたんだけど、

ありのままのあなたで居られたのは、あなたが「自分にできることはなんだろう?」って考え続けて、できることをしっかり見定めて、実行してきたからだよって何度でも伝えて、何度でも褒め称えたくなります。

 


さらに細かく言えば考え続けていただけでなく、手あたり次第に手を出さず現状とキャパシティを見て足りないものやすべきことを決めてたし。

一度やると決めてからはどれもコンスタントに丁寧にやってくれました。

こう書いてみると推しがアイドルとしてだけでなく、物作りする人や社会人として誠実で優秀な人だなって改めてわかります。

続けるのがうまい人だなって思ってたけど、終わり時を作るのも丁寧で上手だなって今回の事で知ったし。

 

 

 

あと個人的なことですが、私は推しである彼に「応援してる人」「好みのステージをする人」以外に「尊敬・憧れの人」的なものを見出してたので、配信やブログで推しの考えや感性や選択を知れることはとても嬉しいことでした。

推しの行ったコーヒースタンドに行くとか、どこかで教えてくれた小説を読むとか作ってたご飯作るとか。

ブログ何回も読むとか、どういう意図を持って踊ってるか考えてみるとか。

世間ではこれを「推し活」*2と呼ぶのかもしれないですが、どれも敬愛する推しの脳内をすこし知りたかったんだと思います。もちろんコーヒーを飲んだから推しの何がわかる訳じゃないけど、同じ風景を見ることで何かを知れるかもって、そういう感覚も自分にはありました。

いつのまにかフォーゲルさんの感性や選択って、私の日常の自分の指針にもなってたんですよね。(これちょっと言うの悔しい。全部が全部推しに影響受けてたわけではないですよ。)

 


もちろん特にイベント後や動画をあげた後に、いきさつやこういう想いを持ってパフォーマンスしたってあとがきのように伝えてくれたことは、宝物で、アイドルオタクとしての最高の楽しみで。

フォーゲルさんの素晴らしいところは、こうしてこれだけ「ステージ外での楽しみを」って作ってくれて日常に飛び込んできてくれても、やっぱりステージという非日常空間にいる推しが一番輝いてる!最高!に結び付けてくれるところだと思います。これは個人的な意見かもしれないけど。

 

 


パフォーマンスにおいては退く日が決まろうとなお鍛錬を続け、「観てくれている人の日常にお邪魔して楽しい時間を作る」というスタイルをセルフ・プロデュースで創り上げた結果が

ありのままの自分でアイドルができた!幸せ!

なら、心からよかったと贈れるし、もうあなたほどの人なんていないよという言葉しかでない。

本当にあなたはすごいアイドルで、ひとだよ。

 

 

 

 

 

推しのTikTok鈴木愛理さんの「最強の推し!」が最新ポストなんですけど、あぁこれが最後のTikTokだとしたらぴったりだし綺麗な終わりだな〜って思ってたら、いつかの配信で同じようなことを推しも言っていました。

この曲、愛がいっぱい詰まった素敵な歌だとずっと思ってたし、「推される側」の人が「推す側」の人の気持ちで踊ってるのもいいし、何より愛理の多幸感あふれるハリのある声ってフォーゲルさんにこんなに似合うんだなって嬉しい驚きがありました。

www.tiktok.com

 

これが投稿されたタイミングで私にとってフォーゲルさんって「一生の推し」なのかなって自然と考えたんですけど、卒業した後の彼がわたしの「推し」なのかを考えると、ちょっとぴんと来なかったんですよね。

たぶん私の中では「推せる人」が「推し」であって、活動をしていない人は「推せない」人、すなわち自分の中では「推し」という言葉に当てはまらないんだと気付きました。

 


わたしは卒業後に「推し」という言葉では彼を指さなくなるんだろうけど、

旅行先でコーヒーが飲みたくなった時、彼が踊ってきた曲を街中で耳にした時、かんぴょう巻きを食べる時、「お好きな色を選んでください」にがあった時、あと間違えて京浜東北線の蒲田止まりに乗ってしまって舌打ちしそうな時。

間違いなくわたしは彼を思い出すんだと思います、克明にじゃなく過ぎるくらいかもしれないけど、きっと。

 


そのくらい私の毎日の中にもすでに推しの面影がたくさんある。こんなに日常に溶け込んでくれたアイドルは後にも先にも出逢わないと思うし、きっとこの先も私にとって唯一無二の人であり続けるでしょう。

活動や新しい情報が止まろうと、彼が今まで作ってくれた楽しかった思い出や、わけてくれた考えは、消えずにこのまま日常に面影としてあり続けると思うから。

 

 

 

それを励みにしたり大事にしたりしながら、この先の推しがいない日常も歩めたらいいな、と今は思っています。

 

 

 

 

*1:ちなみにこのあとものすごい加速度で重さを増す一方です

*2:あまり好きな言葉ではないです